昭和三年四月八日 大井川橋新築工事概要 静岡県

大井川橋新築工事概要
1、位置 大井川橋は東海の一大幹線たる国道一号に於ける駿河と遠州の界なる大井川に架設せるものにして東は志太郡島田町西は榛原郡金谷町との間に介在す


2、改築の由来 大井川は本県下四大川の一にして東海道を通過するものは渡船に依るの外なく交通に運輸に其の不便不利名状すべからず、大正八年道路法制定せらるるや本県に於て管内国道一号の難所の改良を企て県会の決議を経て改築費八百万円を十一ヶ年継続事業として国庫の補助を得工事の完成を期せり本橋架設は其の事業の一にして大正十三年三月十六日起工以来満四ヶ年間幾多の出水に遭遇せしも幸に大なる障害を被ることなく竣功を告げたり


3、設計の大要 各部の設計は道路構造令により総て耐久耐震の構造となしたるものにして其の概要左の如し
(1)橋体 橋梁全長五百六十間五分(一、〇一九米一)有効幅員四間有効高十五尺にして一径間長百九十五尺(ピンの中心間隔)十七径間にして各径間は櫛型とし十格間に区分し中央高三十尺両端高二十二尺の放物線をなしプラット式鋼構橋なり
鉄材は殆んと全部八幡製鉄所より直接購入し横浜船渠株式会社をして製作せしめたり
(2)橋面工 橋床は厚平均五寸の鉄筋コンクリート工とし其上部は厚三寸の日本松クレオソート注入防腐材を以て舗装せり
(3)積載荷重 各部材の設計積載荷重は八トン自動車、十一トン転圧機、毎平方尺に十貫七百目の群集荷重の通過に耐ふ
(4)橋台及橋脚 橋台は一字型礫コンクリート工とし橋脚は深四十尺外経十三尺五寸の鉄筋コンクリート沈井工二個を鉄筋コンクリート工にて連結したるものにして其の巾十三尺五寸長三十尺高十六尺を有す而(しか)して橋体の下端と洪水位とは六尺の余裕ありて流材其の他の通過に支障なからしむ


4、主なる使用材料
橋体鋼材      三千三百五十九トン
セメント      八千九百二十五樽
鉄筋材料      十万九千五百九十四貫
木塊      二千二百四十七面坪(四十八万七千六百個)
高欄鉄材      二百九トン

5、工費総額
百七十四万三千六百七十四円(前後道路費共)
工事費      百五十五万二千二百九十円
雑費      十五万九千六百五十円
補償費      三万一千七百三十三円


6、工事関係者
鋼材製作      八幡製鉄所
加工製作架渡工事  横浜船渠株式会社
橋体橋脚工事    山口順一
前後道路工事    八田健太郎
設計監督      静岡県内務部土木課

附録

交通上より観たる大井川の沿革

一、概説

箱根八里は馬でも越すが

越すに越されぬ大井川

古来大井川に関する詩歌勝げて敷ふべからずといえども、其の人口に※膾炙(かいしゃ)すること、此の界隈に過ぐるものあらざるべし。是れ抑々何故なるか。他なし旧幕時代に於て行旅の渡渉に苦しむこと、大井川に過ぐる者なかりしが為めのみ。按ずるに大井川の奔流激淵は、固より天下の一大天険たるを失はずといえども、いやしくも人力の及ぶ限りを尽さば、必ずしも越すに越されざる程にもあらざりしならん。しかも行旅をして此の歎(なげき)を発せしめしもの、又徳川幕府の政略に出でしなり。左の記事は以て此の間の消息を知るに足るべし。

※膾炙 人の評判となり広く知れ渡る

寛永三丙寅年六月前将軍台徳君(秀忠)新将軍台猷公(家光)御上洛、海道の大名道橋等の掃除御饗応を尽す。就中駿河大納言忠長卿、御領地大井川に浮橋或は舟橋といふをわたさる。供奉の面々彼の橋を渡り大に感ず。然る処前将軍此の橋を渡らしめ給ひ、御気色大に損じて、仰に曰く、此の大井川は諸国にかくれなき関東の難所同然の所なり。東照宮御上洛のみぎり御辛労にて此の河を渡らせ給ふ。橋をかけて苦しからざるならば、その御時にかけ給ふべきなれども、橋なきを以て関東の要害とす。よって世人も此の河の心安く渡り難きと思ふ所なり。然るをたやすくかくること、東照宮の神慮にそむき、次には天下の名所をやぶるの罪甚しと、御機嫌以ての外なり。御前伺候の御一門並に諸大名恐入て承諾す

云々(駿国雑誌所載元延貫禄の文)

この意味より言へば、右の理屈は徳川幕府の思ふつぼにて、好個の宣伝歌といふも不可なく、将軍たるもの此の歌を聞かば暗に会心の笑みを洩したるなるべし。又此の難所に舟橋をかけたるは天下の名所をやぶるの罪甚しといへるは人をして失笑せしむるにあらずや。されば後来横渡船(島田金谷間の渡船)若しくは通船(向谷横岡辺より千頭辺まで高瀬舟にて上下するものの称)の許可を出願せしもの前後十数回に渉りしも、未だかつて目的を達せしものあらざりしは、決して怪むに足らざるなり。王政復古以来力を民治に尽くし、大井川の若きも船あり橋あり。今や一大鉄橋架設功を鴆(あつ)め、今日をもって開橋の典を挙行するに至りぬ。あに慶賀の至りにあらずや。請ふ吾人をして左に古来の変遷を略叙せしめよ。

二、渡渉の変遷

旧幕時代橋梁又は渡船なき街道の大川を旅人の越ゆる時、蓮台又は肩車などにて渡すを歩行越と言ふ。往時東海道五十三駅中にて渡場十三箇所ありき。船渡は近江国横田川、伊勢国桑名と尾張国宮との間なる桑名の海、遠江国荒井(新居)舞坂の間なる荒井(新居)の海、天竜川、駿河国富士川、相模国馬入川、武蔵国六郷川の七ヶ所。肩車又は蓮台を以て渡すもの即歩行越は近江国草津川、駿河二州を界する大井川、駿河国瀬戸川、安倍川、興津川、相模国酒匂川の六ヶ所なり。上古は四道将軍派遣の事や、武内宿禰(すくね)の東国視察や、日本武尊の東夷征伐等の事等史籍に見ゆれども、河川に関する記事有るを見ず。蓋(けだ)し当時は人口稀薄にして治水の術未だ開けず、唯天然の威力に任せたるを以て、大井川の若く長く峡間を流れ来りし水が、俄然峡谷を離れて平地に出づるや、一時に放散溺漫して広き流域となり、水脈は終に分岐して幾十百條の小流となり、各々凹所を求めて流れたるべければ、峡谷の激流は変じて無数の※潺湲(せんかん)たる小河となり、従つて水勢も弱く水底も浅く、霖雨洪水の時にあらざれば、概ね裳を掲げて徒渉することを得たりしならむ。其の後桓武天皇の二十年の詺勅(しょうちょく)に

※潺湲 さらさらと水が流れるように

諸国輸送調庸而或津川無舟梁多為民憂。貢調之時令路次国郡設舟楫浮橋永為恒例。云々とあれども大井川が此の範囲内に包含せられしや否やを知らず。然れども是れより三十五年を経て仁明天皇の承和二年に左の制を下されたり

尾張美濃界墨股河渡船二艘。尾張草津渡船一艘。参河飽海矢作両河各二艘。遠江駿河界大井川二艘。

駿河安倍川一艘(中略)宜各加増二艘以正税買備。

是れ明かに従来二艘ありし渡船に尚ほ二艘を増したることを証するものなれば、桓武天皇の御時に既に渡船を設けられしと推想

するも架空の談にあらざるべし。降って戦国の世となりては、各地に割拠するもの天険を利用して互ひに防守の設備をなしたれば、自然に橋梁舟楫の減退を来し、徳川時代に至りて特に東海道交通を重要視し、大井川の若きは架橋と渡船とを厳禁して歩行越となせり。明治維新に至り初めて歩行越の甚だ不便なるを以て渡船の禁を解かれたるなり。

東海道島田金谷の間大井川従前歩行越の処旅人難渋不少に付別紙之通当分被相定候條此旨可相心得事

明治四年辛未四月  太政官

大井川渡船当分左之通相定候條水主之者船賃之外酒手等乞請候儀無之様於地方取締可致事

船賃之儀当五月より賃銭表之通相定候事

大井川賃銭

一 銭百二十四文        乗合一人

一 銭三百七十二文 但口付共  乗馬一匹

一 銭五百文          長持駕籠一挺

一 銭三百七十二文       引戸駕籠一挺

一 銭二百四十八文       垂山駕籠一挺

一 銭百八十四文        両掛分持共一荷

一 銭六百二十四文       大長持一棹

一 銭三百七十二文       長持一棹

右之通相定候事

辛未四月      駅逓局

一 行幸行路其他非常出兵等之節者別段之御処置可有之事

一 毎々出船者暁六ツ時より夕六ツ時迄に可限事

伹急用之者は刻限に不拘出船可致是も夕六ツ時迄者都而定賃江五割増之事

一 常水二尺五寸は三尺之増水にて馬越相留四尺増より通船不相成事

右之通相定候事

辛未四月     民部省

明治六年仮橋を架す。其の九年金谷の人仲田源蔵、島田の人鈴木久一郎、小川の人向坂彌平次等初めて七百三十間の長橋を架して大に交通の便宜を得たりしが、時々の大水は遂に此の橋梁を流失せしめ、東海道は鉄路を敷かれて往来の人馬は汽車の便に依るが故に、其の後架橋の企なく、微々たる渡船に依りて人を済(すま)せしに過ぎざりき。今や本鉄橋成りぬ。後来の福利将(ま)さに測る可らざるものあらんとす。若し夫れ工程の経過と設計の要領とは、請ふ巻首掲載の記事を観られんことを。


三、歩行越の状況

政府が大井川の渡渉に対する思慮は、幕政と王政との間に天地の懸隔あり。維新以後政府に於ては一に公衆の便益を旨としたけれども、幕府は則ち然らざりき。大井川の若きも所謂関東の御要害のためには、橋梁の架設を許さず。舟楫(しゅうしゅう)の※氾済(はんさん)を容さず。行旅の通過を東海道島田金谷両宿間一定の地に限りて歩行越に由る外なからしめ、犯すものは何者をも暇借せざりき。今幕府の高札の文面を左に録して当時の状況を想見する一助に供せん。
※氾済 広がる



一 往来の旅人に対し川越の者がさつ成事すへからす無礼悪口等の事あるへからすたとひ軽き旅人たりといふとも大切に思ひあやまちなき様に念を入へき事
一 川越吟味する所より札を取り川越すへし旅人と相対にて賃銭取へからす並旅人をいひかすめ札銭の外一切取ましき事
一 旅人いか様にたのむといふとも御法度の脇道へまはるへからさる事
一 川越の事暮六ツ以後手引にてもすへからす若急の旅人断ありて夜中に通るに於ては川越肝煎の者吟味の上水のかさ帯通より上の時は手引二人帯通より下の時は一人にて渡すへき事
一 旅人家来馬に取つき越候ものあらは乗掛馬には二人から尻馬には一人に過すへからす人多く取つく事あやうきに付此の定の外無用たるへき事
右之條々可相守若於相背者可被行罪科者也
正徳元年五月 日       奉行
右第一項に川越のがさつなる事を戒めたるはさる事ながら、第三項に通過の地点を限定せられ、将又舟楫の氾済と橋梁の架設を禁ぜられたる行旅の苦痛はいかに甚(はなはだ)しかりけん。
大井川は常水を二尺五寸と定め、二尺増即四尺五寸までは歩行越をなせども、其れより以上になれば川止めとなる。歩行越は川越人足の肩車に乗るものと、蓮台に乗るものとあり。蓮台に四種あり、其の一は普通に蓮台といふもの幅二尺五寸長一間ばかり、白木梯子型にて二人向合ひて乗る。川越四人以上台札二枚。其の二は中台。幅三尺余長二間、紅がらにて塗る。荷物用なり。川越四人以上台札二枚。其の三は半高欄、幅四尺長二間ばかり、両側に格子を設け、身分ある人を載す。川越四人以上台札四枚、其の四は大高欄、最も高貴の大名公卿を載す。川越多敷にて定限なし。

賃銭に台札油札の二種あり。油札は川越一人の賃銭にして台札は蓮台の損料、価格は油札の二倍なり。川を越さんとする者は、川会所にて札を買ふ。今の鉄道切符の如し。札を持ちて越場にゆきこれを渡して川を越す。

越賃は水の深浅によりて、日々左の範囲内に於て増減す。これを決定するには年※行事と待川越とにて、毎朝其の深浅を測り、川庄屋の承認を求め、問屋場にゆきて決裁を請ひ、其の結果を宿役人川役人に報告す。これを御注進と称す。越賃の定法左の如し

※行事 世話役

一 常水二尺五寸   股通より膝上まで    馬越と称す

川直段五十八文より四十文まで。渇水の節は三十八文より二十四文まで

一 常水五寸増    帯通より股上まで    同※断

川直段六十八文より六十文まで

一 常水一尺増    乳通より帯上まで  同断

川直段七十八文より七十文まで

一 常水二尺増    脇通より乳通まで  歩行越と称す

川直段九十四文より八十文まで

一 常水二尺五寸増  肩摺払(すりはらい)水      御状箱越

一 常水二尺五寸以上増          無通路

歩行越の事務は川会所に於てこれを処理す。川会所には川庄屋四~五人、年行事十名内外を置き、川越人足は島田金谷各約七百人あり。これを敷組に分ち、組毎に小頭を置く。川越中強健にして熟練せるもの若干人を抜粋して待川越と称せり。

※断 定め

四、大井川に関する詩歌

・二十五日菊川を出てて今日は大井川といふ河を渡る。水いとあせて聞きしにはたがひてわづらひなし。かはら幾里とかや。いとはるかなり水のいでたらんおもかげをしはからる

阿仏尼

・思ひいつる都のことは大井川 いくせの石のかすもをよはし(十六夜日記)

少しうちのほるやうなる奥より大井川を見わたしたれは、はるはるとひろき河原のうちに一すぢならず流れたる川瀬ども、とかく入ちがひたるに似たり。中々わたりて見んよりもよそめおもしろく覚ゆれば、かの紅葉みだれて流れけん龍田河ならねども、しばしやすらはる

前河内守親行

・日数ふるたひのあはれは大井川 わたらぬ水もふかき色かな(東関紀行)

澤庵和尚

・瀬は淵に思ひかはさは大井川 ひとの心の底もたのまし(東武紀行)

民部卿為家

打ちわたすいく瀬あまたの大井川・みえてそ遠き初倉の山(藻汐草)

贈大納言雅世

・思はすよ都の西の大井川 あつまちかけて流れこんとは(富士紀行)

徳川家光

・大井川みなきる水も世につれて しつけき御代のなかれなりけり(駿国雑誌)

光廣卿

・君か代のかすにとるとも大井川 かはらにおほき石はつきめや(吾妻の道の記)

右岑

・大井川荒瀬流るる末見れは かすみにけりな伊豆の遠山

林羅山

尋常掲厲必過腰。  叱馬呼奴魂欲消。  来往就中何処苦。

無舟無筏復無橋。

海道奔流第一川。  籃輿舁載担夫肩。  洛西大井雖同称。

此不看筏彼有船。

服部南郭

旅客憑陵慎渉過。  横天湍瀬急頽波。  水光倒走中山樹。

石勢轟流大堰河。  決口年々沈白馬。  防堤処々臥蒼蛇。

早知夏后行無事。  安得成功済世多。

さみたれの雲吹き落とせ大井川・・・・芭蕉

河霧や百万石も浪の上・・・・・・・・湘夕

五月雨の大井越したるかしこさよ・・・蕪村

みしか夜や二尺落ち行く大井川・・・・同